加湿器

わたしは夜寝る前に必ず、コップ二杯の水を飲むようにしている。眠っている間に乾いて死んでしまうのが不安なのだ。この習慣のおかげか、わたしは乾いて死ぬ夢をみることは決してなかったし、幸いなことに、パジャマやシーツを尿で濡らすこともなかった。うまくいっているってこと。

ところが最近のわたしは、寝起きにひどく喉が渇いている。コップ二杯の水を飲んでいるにもかかわらずだ。あとすこし起きるのが遅ければ、指でかさかさ砕けるくらいのミイラになっていたに違いない。

さて問題があるときには、原因がある場合がある。わたしは灰色の脳細胞を駆使して喉の渇きの原因を考察した。ピコーン。電気ストーブをつけているからやね。わたしの部屋はどういうわけか、ほかの部屋より2℃ほど冷えている。ゆえに冬のまんなかは電気ストーブが欠かせない。ストーブが部屋を乾燥させ、それも知らずに眠るわたしは乾いた空気を吸って吐いて吸って吐いてぱりぱりというわけだ。

加湿器がほしい。しかしインターネットで頼むと北海道に届くまでには途方もない時間がかかり、その間に死んでしまう。わたしは街まで出かけ、家電量販店で安めの加湿器を購入した。その加湿器は薄い青色の、面取りがされた円柱形をしていて、わたしの家にあるバケツくらいの大きさをしている。スチーム式で、上面の蓋から水を注いでスイッチを押せば、水がなくなるか指定した時間が経過するまで水を温め蒸気を発し続けるようだった。

加湿器の効果はなかなかのものだった。寝る前にスイッチを入れるだけで、起きたときの喉の渇きはほとんど治まった。加湿器の中で沸き立つ水の音も心地よく、よく眠れる気がした。

昼、そんなことをしている場合ではなかったのに加湿器の説明書を読んだ。おおむね、どの加湿器にも同じようなことが書いていそうだったが、ひとつだけ気になる文章があった。

「水タンクには水道水以外、例えばオレンジジュースなどを入れないようにしてください」

それは注意書きのなかの一文で、入れてはいけないものの例にオレンジジュースを持ち出す独特さはもちろん、「例えば」の使い方がやけに口語的だったり、説明書の文章としてはなんだか場違いに思えた。「入れないようにしてください」も「入れないでください」や「使用しないでください」に変えたほうがここでは適切だろう。まあ、そう思ったというだけのことだ。

その夜も加湿器をつけてからベッドに入ったが、あの注意書きの一文が頭のなかで何度も読み上げられ、なかなか眠れなかった。加湿器に、オレンジジュースを入れたら、どうなっちゃうんだろう。やる前からなんとなく想像はつく。スチーム式の加湿器は中の水を沸騰させて蒸気を発生させている。つまりオレンジジュースを鍋に入れて煮詰めるのとそう違わない。オレンジの香りのする蒸気が噴き出るだけだ。あとはちょっと水タンクが汚れたりするかもしれない。なんでオレンジジュースなんだろう。煮詰めたら致命的な事態になりそうな液体はいくらでもある。わたしは眠りに落ちた。

昼食を用意しようと冷蔵庫を開けると、紙パックのオレンジジュースが入っていた。家族のだれかが買ったのかもしれないし、そうではないかもしれない。ひとつ確かなのは状況が整ったということだった。わたしはオレンジジュースを手に取り部屋まで戻った。加湿器の蓋を開け、オレンジジュースを注いだ。1Lのオレンジジュースがすべて入った。蓋を閉め、スイッチを押した。電熱線がブーンと鳴った。

むせかえるほどのオレンジの香りで目が開いた。沸騰するまで横になっていようと思っていたが、布団が気持ちいいものだから眠ってしまった。天井が見えない。肌が水っぽく冷たい。息をするたびにオレンジの香りが肺を満たす。どうやら部屋がオレンジの香りの霧で充満しているようだった。右腕を天井に向けて伸ばしてみると、肘から先が霧に消えた。すごい濃霧だった。遠くでぽこぽこと液体が沸き立つ音がした。

霧をなんとかしようと、ベッドから窓のあるほうへ腕を伸ばした。ベッドは窓際にあるはずなのだけれど、伸ばした手がなにかに触れる気配はなかった。腕を動かす度に肌がひんやりした。ひとまず窓はあきらめ、ベッドから降りて加湿器を止めることにした。立ち上がると、硬くて冷えた床に素足がぴちょりと鳴った。部屋には絨毯が敷いてあるはずだった。

わたしは腕を正面に突き出しながらゆっくりと歩いていった。わたしの部屋は狭く、ベッドから三歩も歩けば壁や扉に手が触れ、扉のすぐそばには加湿器が置いてある。しかし歩いても歩いても壁にたどり着く気配はなかった。沸騰の音もいまだ遠いままだった。ベッドまで戻ろうとも考えたが、この霧の中で来た道を辿れるとは思えなかった。

わたしは「これは困ったことになったぞ」と口にしてみた。心からそう思っていた。立ち止まり、両手で髪を後ろに束ねると、ぎゅっと握りしめた。じゅうじゅうと髪から水が出てきた。なにせすごい霧だ。手に残った水を舐めてみると、甘酸っぱいオレンジの味がした。飢えることはなさそうだ。わたしはまた歩き始めた。

もうそろそろ歩けないというくらいに歩いて、右手がなにか硬いものに触れた。壁のようだった。なにかの果てに着いたのかもしれない。いつの間にか、水が沸き立つ音が後ろから聞こえていることに気がついた。そして、音は徐々にこちらへ、一定の速度で近づいてきているようだった。わたしは直観的に、決して振り返ってはいけないことを理解した。わたしは壁に右手を当てたまま、すこしも動かなかった。ぽこぽこと音が近づいてくる。音はわたしの真後ろまで来ると、すっかり動かなくなった。

頭のなかで百まで数えた。やはり水音は後ろで鳴り続けていた。このまま横着していても状況は変わらないし、ずっと同じ姿勢で肩も首も痛いからもう成り行きに任せるしかないと思い、わたしは勢いよく振り返った。途端に沸騰の音は消えてなにも聞こえなくなった。目の前にはこれまで通り、オレンジの香りの霧が立ち込めていた。右腕を伸ばしてみると、やはり肘から先が見えないくらいだった。よく考えてみると、肘から先の感覚がまったくなかった。腕を引っこめて確認すると、肘から先がなくなっていた。断面からは絶えず霧が噴き出していた。痛みはなかった。左腕もそのようになっていた。両脚もそうだった。全身が霧に溶け始めているようだった。加湿器にオレンジジュースを入れたのだから、これも仕方がないことだと思った。そういえば、三日前から消えてなくなりたいと思っていたから、まあちょうどよかったのかもしれない。わたしはオレンジジュースの香りの霧になった。