いるかの原著

部屋を、幼い人間に特有のあの、安いソーセージのような匂いが満たしている。古ぼけた掛け時計の秒針が規則正しく鳴っている。子供たちのなかで私だけが瞼を開いている。私はそっと毛布をたたんでベッドから起き上がる。足をゆっくりと床につけてベッドから床へ徐々に体重を移していく。さいわい床の木材はほとんど軋まない。私はとうとう二本の足だけを支えにまっすぐと立つ。窓の外の闇、その向こうの湖を見つめると、湖も私を見つめ返す。
「子供よ、こっちへおいで」
湖がささやく。私はうなずき、無防備にも湖に背中を向け、扉へ向かって歩いていく。床が軋む。ドアノブをひねると錆びた金属が悲鳴をあげ、子供たちの中でも鋭利な性質の者は目を覚ますが、その鋭利さゆえに決して瞼を開けることはない。私は扉を開け、15人の子供たちを残して部屋をあとにする。扉が閉まる。

闇のなか、姿勢を低くして手さぐりに階段を降りていく。服が壁と擦れてさらさらと鳴る。15段ほど降りたところで、遠くにぼんやりと橙の明かりが見えてくる。私は階段を下りきり、明かりに向かって歩いていく。

明かりはリビングの暖炉のものだった。炉のなかでぱちぱちと薪が燃えている。暖炉の前の安楽椅子には、住み込みの管理人の老女が座って火をぼんやりと眺めている。老女が私に気がつき、目線だけで私をもうひとつの椅子に座るよう促す。私は素直に安楽椅子に深く座り、ふたりはじっと火を眺める。
「寝れないのかい」
老女がつぶやく。
「湖に行こうと思って」
「夜に湖に行ってはならない」
ぱりっと大きな音を立てて薪が割れる。
「どうしても?」
「いるかに生きたまま食べられたいなら止めはしない」
私はなにも言わず、いるかの口でどうやって人間を食べるのか想像する。いるかたちは苦労してその仕事を遂行する。暗闇のなか、湖面が赤く光る。
「湖に行く代わりになるかはわからんが、こんな時間まで起きているわがままハニーマスタードちゃんには特別に、いるかにうろこがないわけを教えてやろう。これを聞いたら上に戻るんだよ」
老女が遠い国の昔話をはじめる。