アシカは四則演算ができない
半年ほど前の話です。わたしは大学を休学していました(そして、現在も休学しています)。やることといったらゲーム制作と在宅のバイトくらいで、外にはほとんど出ませんでした。そのことを心配して、わたしを外に連れ出そうとしたのでしょう。ある平日の朝、友人のXから「週末にT水族館に行こう」と連絡が来ました。Xとはしばらく会っていませんでしたし、T水族館でぼんやりとジェンツーペンギンを眺めるのはきっと素晴らしいことだろうと思いました。わたしは連絡を返し、土曜日の午前9時にさっぽろ駅でXと落ち合うことになりました。
わたしはかろうじて起き、20分ほど遅れて待ち合わせ場所に着きました。わたしはXに何度も謝りましたが、Xはさして気にしていないようでした。Xはわたしに、「乾が待ち合わせに遅れることには慣れているけれど、遅れるたびに何度も謝るのは鬱陶しいからやめてほしい」と話しました。わたしは「その通りかもしれない」と言いました。
わたしたちはJRの電車に乗ってY駅まで向かいました。移動の最中、わたしたちは近況を報告し合いました。そうは言っても、家から出ずに人とも会わないわたしが話すべきことは非常に少なく、ほとんどの時間はXの話をわたしが聴いていました。
Xは現在、今年度から配属された研究室で脳の研究をしているそうです。それはわたしにとって意外なことでした。Xとは長い付き合いですが、Xはこれまで脳に関心を持っている素振りを示すことはすこしもありませんでした。Xはむしろ、植物と人間社会との関係性について語る小難しい人文書だとか、19世紀あたりに書かれた幻想的な海外小説などを好むような人間でした。もちろん、大学で専攻するものと個人の嗜好が常に一致するわけではないのでしょうけれど……。
「なぜ脳なの?」
わたしがそう訊ねると、Xは眩しそうに顔をあげました。いつの間にか電車はトンネルを抜けて海岸沿いを走っており、海は二月の太陽を受け止めて白く輝いていました。
「それは……」
Xは海を見つめながら適切な言葉を探しているようでしたが、それはなかなか見つかりそうにありませんでした。電車は再びトンネルに入り、そしてトンネルを抜けました。
「きっと私は、神秘を信じきれなくなって、だから、いっそのこと、私の手で神秘を剥ぎ取りたくなったのだと思う」
Xはゆっくりと、悩ましそうに答えました。正直なところ、わたしにはXの言いたいことがよくわからなかったのですが(脳を研究したとして、神秘と呼び得る超越的ななにかをどうこうできるとは思えません)、Xにとってそれは深刻な決断であったことは間違いがないように思えました。わたしは聞いたことをすこし後悔しました。
Y駅に到着し、わたしたちはバスに乗り換えて水族館まで向かいました。乗客はわたしたちふたりだけでした。バスの中でもXは研究室での話をしてくれました。安楽死させたマウスから脳を取り出し、専用の機械でスライス(わたしはキャベツの千切りやきゅうりの薄切りに使うスライサーのようなものを想像しました)、そして薄切りの脳をいい感じの液体で冷やしてどうこう。
Q,マウスを殺すのってどんな気持ちなの?
A,最初は抵抗があったけれどもう慣れてしまった。もうチャーハン食べながらでもできると思う
Q,チャーハンを食べながらってことは片手で?
A,片手ではできない
全身麻酔をかけたマウスの脳をそっと弄って視交叉上核を破壊して概日リズムを破壊してそれから……リップル波……ヒグマの脳……。
そうこうしている間にバスは終点に到着しました。わたしたちはバスを下りましたが、あたりはやけにひっそりとしていました。波の音がいやに響きました。すこし歩いて、T水族館の前までやってきましたが、ただ受付のカウンターにいる職員(なんだか気だるげでした)とわたしたちを除いて、人間はだれひとりいませんでした。
「週末だというのに、ここまで空いていることがあるのかな」
「しかし、現に空いている」
わたしたちはチケットを買うために係員のもとに向かいましたが、職員はわたしたちの姿を見てひどく取り乱していました。
「まさかこんなときにお客さんが来るなんて……」
「こんなとき、というのは?」
「もしかして、ニュースを見ていないんですか?」
ニュース?わたしはスマートフォンを取り出し、検索エンジンに『T水族館』と入力しました。
T水族館 革命
T水族館 いるか
T水族館 いるか軍
T水族館 反乱
T水族館 料金
T水族館 デート
革命?わたしは『T水族館 革命』のサジェストをタップしました。検索結果のトップはあるニュースサイトの記事でした。
『T水族館でいるかが革命起こす 海からの援軍と共に徹底抗戦か』
いるかが革命。
「調べたら出てきたでしょう。昨日の夜、海から武装したいるかたちがやってきて、館内のいるかを全員開放した上に、職員や飼育員たちを追い出して水族館を占領したんです。中には抵抗した人もいましたが、見せしめに……」
職員は右手を、親指と人差し指、中指でなにかをつまむような形にして二度、鍵を開けるように手首を小さく捻りました。
「キュイキュイ……っとね」
職員は手元でなにかを操作し、カウンター越しにわたしたちに二枚のチケットとパンフレットを渡しました。
「状況が状況ですから、お代は結構です。どうぞ楽しんでください」
「でも、チケットがあったとしても、水族館はいるかに占領されているのでは?」
「その通りです。ですが、いるかにも分別はあります。ただ魚を見に来たお客さんと、水族館を取り戻さんとする職員や軍隊との見分けくらいはつきますよ」
「そうですか……Xはどう思う?」
Xは既にパンフレットを開いてじっと眺めていました。
「ちょっと急いで回れば、この後のアシカショーに間に合うはず」
そこらじゅうで戦いが繰り広げられていたのでしょう。水族館の中は薬莢や肉片、瓦礫などが散らかり、潮と血の臭いのするねばついた空気で充満していました。しかし、ガラスに小さな傷や銃弾の跡はついているものの、水槽はおおむね無事でした。水族館のガラスがとても頑丈に作られているのってほんとうみたいですよ。水槽の中では、外で起きたことを気にする様子もなく海水魚たちが退屈そうに泳いでいました。
Xは美術館で絵画でも干渉するように、それぞれの水槽をある程度の距離からじっと眺め、気が済むと次の水槽の前まで歩いていきました。わたしは興味のない雑魚魚(ざこうお)の水槽はどんどん飛ばして、チンアナゴやダンゴウオ、クラゲだとかのインターネットでウケる感じの生き物ばかりを見ていました。
わたしがXから離れてどんどん水族館を進んでいると、向かいの角からキュキュと、濡れた床をゴムっぽいものが滑っていくような音がしてきました。わたしは咄嗟に「いるかだ」と思い身を隠そうとしましたが、受付の職員が言っていたことを思い出し、怪しまれるようなことは避けるべきだと考えてそのままいるかがやってくるのを待ちました。
しかし、角からやってきたのは青いつなぎを着て、ぼさぼさの髪を後ろでまとめた、水族館の飼育員らしき女性でした。わたしと同様に、彼女もその邂逅に驚いているようでした。
「あなた、なにしてんの?状況知ってる?」
「いや、その、ただの客です」
わたしたちの声を聞いて、Xが駆け足でこちらにやって来ました。
「乾、大丈夫?」
「しかもふたりで……」
飼育員はわたしたちを眺めてため息をつき、おおげさに首を振りました、
「いったいあなたは?外にいた職員から、水族館の従業員はみんないるかに追い出されたと聞きましたが」
「そしたら、だれが魚たちの面倒を見るのさ」
「いるかが……?」
「いるかたちがそんなことするわけないじゃないか。奴らの目的はいるか帝国の陸上進出。いるかにとってここはそのための仮拠点に過ぎないんだよ」
「そうだとして、あなたはなぜいるかに追い出されていないのですか?」
「どれいとして、いるかの側についたんだよ。私のほかにも何人かが魚やアシカ、ペンギンのためにそうしたよ。私は忙しいからもう行くけど、長居はやめたほうがいいよ。いるかにどれいにされるかもしれないよ」
そう言うと、飼育員は小走りでキュキュと音を鳴らしながら、水族館の入口方向へ去っていきました。
「やっぱり危険らしいよ。どうしようか?」
「そうだね。いるかに遭遇する前に帰った方が賢明かもしれない」
わたしたちがもと来た道を引き返そうとしたとき、チャイムが鳴り、館内放送が始まりました。
『まもなく海獣館のショー会場にて、アシカたちによるショーがはじまります。ぜひお越しください』
「……アシカショー見てからにしようか」
Xが言い、そのようになりました。
わたしたちはショーの会場までやって来ました。おそらくいるかのショーにも使われていたであろうプールの前に、背もたれのないベンチが階段状に配置されています。プールの後方には飼育員(あの飼育員が言ったように、彼もいるかのどれいなのでしょう)と3匹のアシカが待機しており、アシカたちのそばの台には0から9まで数字が書かれた10枚のパネルが置かれていました。
観客はわたしたちと、4頭のいるかだけでした。いるかは集まらずにまばらに座っていました。いるかのうち2頭は小銃のようなものをベルトで身に着けていました。いるかはわたしたちに気がつくと、軽く会釈をしました。わたしたちは会釈を返し、なるべくすべてのいるかから遠い席、真ん中あたりの席に座りました。
飼育員が笛を鳴らすとアシカたちが一斉にプールの前まで這ってきて、ショーが始まりました。アシカは手を叩いてみせたり、飼育員の投げたボールを鼻先で打ち返したり、様々な芸を見せてくれました。特に、2頭のアシカがボールを20回以上トスし続ける芸にはアシカの器用さにひどく感心させられましたし、いるかたちもキュイキュイと喜んでいました。
「ショーも次の演目で最後となります。最後はアシカたちによる算数の計算です」
飼育員がそう言って笛を鳴らすと、アシカたちは数字のパネルの後ろに移動しました。
「さあアシカたち、54かける3は?」
飼育員がそう言うと、3頭のアシカはせっせと動き出し、それぞれがパネルを咥えて一列に並びました。飼育員が笛を鳴らすと、アシカたちは頭をあげてパネルを掲げます。
1 6 2
正解でした。わたしはなんというか、一桁の計算を想像してたので、これにはたいそう驚きました。いるかたちもキュイキュイなようでした。さらに飼育員は計算式を読み上げ続け、アシカたちはせわしなくパネルを選び続けました。
230 + 165 = 395
1950 ÷ 15 = 130
13 × 13 = 169
1084 - 592 = 492
202 + 495 = 697
24 × 13 = 312
1242 - 945 = 297
149 + 752 = 901
アシカは一瞬も休まずパネルを選んでいます。これはなんというか、常軌を逸していました。動物に計算をさせる芸は、飼育員のある合図に対応してあるパネルを選ばせるように条件付けさせている、というのはよく聞く話ですが、そうだとしても3頭のアシカを使った高速四則演算というものがいったい可能なのでしょうか?
「アシカにあんなことができるの?」
アシカたちが計算を続ける中、わたしはXに話しかけました。
「でも、現に、できている。いったいどうして……」
Xはじっとアシカの動きを観察していましたが、わたしと同様、トリックを見破ることはできていないようでした。
「仕組みを知りたいかえ?」
後ろからしわがれた声が聞こえ、わたしたちはとっさに振りむきました。後ろの席に、さっきまで居たはずのない、ぱりぱりのスーツを着たおばあさんが座っていました。
「あなたいつからそこに?」
「わしは計算以外に興味がないからね。きまってショーウの後半から見にくるんだね。それで、仕組みを知りたいんじゃないのかえ?」
「ぜひ教えてください」
Xが食い気味に答えました。Xらしくないな、とも思いましたが、それほどまでにアシカの計算は凄まじかったのです。
162 + 744 = 906
よい好奇心だえ。それなら特別に、あんたたちにだけ教えてあげよう
26 × 11 = 286
あんたたちはアシカに計算ができると信じかけているかもしれないさね
1716 ÷ 13 = 132
しっかしもちろん、アシカに四則演算なんてできないよ。現実的に考えるんだよ
958 - 456 = 502
アシカはただ、適当にパネルを選んでいるだけ
152 + 685 = 837
それならどうして計算が正解しているかって?
17 × 31 = 527
答えは単純。アシカはお得意の催眠術で周囲の観客を洗脳しているんだね。あんたたちはアシカに洗脳されて、頭ン中で、アシカの選んだパネルが正解になるように辻褄を合わせているのさ
590 - 421 = 169
「そんなこと言われたって、アシカが催眠術を使っているというのも信じがたい話です」
Xが言いました。
「あんたたちはきわめて常識的でさあね。だからわしが、常識の檻から救いだしてあげようね」
おばあさんはパチンと指を鳴らしました。
目が覚めました。さっきまでのは夢だったのか、と思った矢先、となりにXの存在を感じました。さらに、後ろにはおばあさんが。周囲の席には4匹のいるか。ステージでは3頭のアシカが飼育員の読み上げる計算式に合わせてパネルを運んでいます。
15 * 15 = 139
452 + 89 = 892
1560 ÷ 4 = 156
892 - 512 = 725
312 + 90 = 192
19 * 12 = 564
2685 ÷ 15 = 512
アシカたちの計算は先ほどとはうってかわって、まったくでたらめでした。ですが、いるかたちはこれまでどおり、アシカがパネルを掲げる度にキュイキュイと喜んでいます。
「X、あの計算、間違ってるよね?」
「うん、私にもそう見える……」
「どうかえ?これで、あんたたちが催眠術にかかっていたと信じる気にはなったかしらん?」
「ええ……」
Xが額を手で抑えながら言いました。
「わしはもう帰るんで、詳しく事情を知りたかったらまたショーウを見に来るといいさね。わしは欠かさずショーウを見るものだから」
おばあさんは喜びを抑えきれないといった様子で話すと、すっと立ち上がり海獣館から出ていきました。
521 + 123 = 129
958 - 123 = 928
2877 ÷ 21 = 258
59 * 13 = 372
792 - 429 = 568
いつの間にか、ショーは終わっていました。会場にはいるかたちも、飼育員やアシカもいなくなっており、わたしとXだけが残っていました。Xはしばらく地面を見つめて固まっていましたが、力なく立ち上がると「帰ろう」と言いました。
わたしたちは帰りのバスでも、JRでもひとことも話しませんでした。あの一件の後になにを話せばいいかさっぱりわからなかったのです。窓から海を見つめるXはどこか思い詰めているようにも見えました。
とうとう札幌駅に着き、わたしたちは「じゃあね」とだけ言って解散しました。わたしは、ふらふらと雑踏に消えていくXの背中を見つめていました。いま思えばここでわたしはXを引き止めて、なにか、なんでもいいから話をするべきだったのかもしれません。例えば、いっしょにカツカレー食べてから帰ろうよ、とか、そういうどうでもいいことでもよかったのです。とにかく、なにかを……。
一週間後、Xから「アシカは四則演算ができない」とだけ書かれたLINEが送られてきました。返信に既読はつきませんでした。周央サンゴさんが「らぶちゅ♡」と言っているスタンプを送ったりもしましたが、意味はありませんでした。それからT水族館のいるかの革命について調べてみましたが、わたしたちが水族館を訪れてから3日後に、いるかたちは北海道治安維持特殊部隊の突入作戦によって全員射殺されたそうでした。わたしは、いるかのどれいとして水族館に残ったあの飼育員が無事か気になりましたが、インターネット上にはなにも載っていませんでした。インターネットには、知りたいことはなにひとつ載っていないのです。
それから二週間後、Qから電話がかかって来ました。
「ねえ、Xと連絡とれる?」
「いや」
「X、二週間くらい前から大学に来てないらしくて、連絡も取れないみたいなんだ。親御さんが心配してXのアパートに行ったけど、そこにもいなかったって。乾はなにか知らない?」
わたしはひどい動悸でふらふらと地面にへたり込みました。
「ねえ、大丈夫?」
わたしは呼吸を整え、ゆっくりと、Qに水族館でのことを話しました。
「うーん。なんだか関係ありそうだね」
「絶対に関係ある……」
「あと思ったのが、なんか、Xは自らの意志でいなくなったっぽい?」
「自らの意志で?」
「うん。ほら、Xってなんていうか、世界との折り合いがつけられない感じの人だったじゃん。だから、望んでいなくなったんじゃない?それなら、私たちがわざわざ探したりする必要もないのかも。まあ、もちろん、事件の可能性もあるし、親御さんはもう警察にも通報しているみたいだし、もう私たちにできることはないんじゃないかな?」
「どうなんだろう……」
それから、Qと軽く話をして、通話を終えました。わたしはめまいに耐えながら立ち上がり、電子ピアノの元まで歩いていきました。そしてコンセントを繋ぎ、電源のスイッチを押し、クロノ・トリガーの『風の憧憬』を演奏しました(いい曲だからね)。
これを書いている現在もXは見つかっていません。T水族館はリニューアルを兼ねた修繕工事中ですが、それが終わり次第、ひとりでアシカのショーを見にいってみようと思っています。なにかXを探す手掛かりになればいいのですが、あのおばあさんにもXにも、もう二度と会えないのだという奇妙な確信があります。Xはアシカの一件によって、わたしたちのいる世界とは致命的にずれたどこか遠くへ行ってしまったように思えるのです。