アルバイト・たまねぎ

アルバイトをしている。わたしとしたことが一年以上続いている。信じがたい。にこにこしながら子供たちに都合のいい言葉を投げかけたりしていると一時間が経過し、時給が発生する。は?働き始めた当初は「わたしはどうしてこんなことを……?」と思っていたけれど、一年も経つと「わたしはいったいどうしてこんなことを一年以上も……?」と思うようになる。まあ、多くの人間にとって、仕事の多くはそういうものなのだと思う。虚業だ。

現在のバイトをする以前に3つのバイトを経験したけれど、そのどれもが長く続かなかった。ひとつは、4000枚くらいのA4のポスターを手作業で20枚ずつに分ける、という短期のバイトだった。その日、紙でいっぱいの狭い部屋にわたしともう一人のバイトがやってきて、厚手のセーターを着た職員が作業の内容を簡潔に説明すると、すぐに彼女はどこかへいなくなった。わたしは同僚と協力してその作業を淡々と行った。なんか、そういう機械があれば一瞬なのを、人間が一番安いからバイトを雇ってやらせているんだろうな、という感じだ。

作業中の間ずっと、わたしはそういう機械についての想像を張り巡らせた。おそらく、それは業務用のコピー機みたいな見た目をしていて、上にある投入口に紙をセットすると、下の排出口から0.4秒おきに20枚ごとに分けられた紙束がしゃきしゃきと出てくるのだ。なんてありがたい。価格は40~60万円くらいだろうか。それだと安すぎるかもしれない。業務用コピー機よりは安くあってほしい。そもそもコピー機の相場もわからないな。100万円とかするのかな。するんだろうな。あーあ。

気がつくと三時間が経過し、部屋にさっきとは別の職員(同じく厚手のセーターを着ている)がやってきた。
「はい、よさそうですね。おつかれさまです」
職員はわたしたちの成果、20枚おきに縦横を切り替えながら積み上げられた紙束をおおざっぱに確認した。
「あれ」
職員が紙束からポスターのひとつを取り出しじみじみと眺めた。
「血?付いてますね」
わたしたちが左右から職員のもとに近寄りポスターを眺めると、そのポスターの隅には赤茶けた染みがしっかりと付いていた。そこでわたしは、わたしの指先が紙でずたずたになっていることに気がついた。確認を続けると、2000枚のポスターのうち、後半に仕分けられたものの数十枚に一枚程度の割合で血の染みが付いているようだった。わたしは動揺した。
「ああ、すみません……」
「いえ、問題ありません。このポスターはそこまで大事じゃないので」
職員がわたしを励ますつもりだったのか、単なる事実を述べただけなのかはわからなかった。あるいは両方かもしれない。

わたしと同僚(もはや相棒と言っても差支えないかもしれない)は3000円の入った封筒を受け取って部屋を出た。相棒もわたしも、時間のわりにひどく疲れていた。
「あの、もし、また同じ作業の募集がかかったら参加しますか?」
最後にわたしは相棒に訊いてみた。
「きっと、あなたと同じ考えだと思う」
相棒は去っていった。わたしはこのとき、何を考えていたのだろう?

なんとか家に帰ると午後五時で、わたしは食事も取らず、服も着替えずにベッドに倒れこんだ。目が覚めたのは昼の二時ごろだった。それ以降、たびたび似た作業の募集がメールに送られてくるけれど、一度も応募していない。

ふたつめのバイトは遠い知り合いの中学生に勉強を教えるもので、これは給料もよくてなかなかよかった。ただ、その中学生の成績は伸びる気配がなかったし(わたしの教え方にも問題はあったとは思うけれど、彼自身も熱心ではなかった)、これは親の満足のためにやっているのではないか、という気持ちが頭を離れなかった。

そして、これはわたしの偏った考えなのだけれど、わたしは彼に数学やらを教えながらも、大学受験はともかくとして、高校受験なんてなるようにしかならないのでないか、と思っていた。中学生なんて(当時のわたしがそうであったように)まだ自我も芽生えていない。もちろん、本人にはそれは伝えていない。

わたしがこのバイトをやめたのは、彼がわたしに対して憧れに近い感情を向けていることを嫌でも感じるようになってきたからだった。思い上がりも甚だしいと思うかもしれないけれど、自我が芽生えていない人間のそういうのはあまりにもわかりやすい。彼がわたしのどこに惹かれたのかはさっぱりわからない。ともかく、当時のわたしにはそれが無性に耐えがたく、彼の母親に「これから忙しくなり、時間を取ることが難しい」と伝えてこのバイトをやめた。後に聞いた話によると、その中学生(いまは高校生だ)は直前で受験校を第二希望に切り替え、そこに受かったらしい。

みっつめのバイトについては、わたしの中でじっとりと嫌な記憶として残っている。支払いもよく、仕事内容もいままででいちばん楽だったのだけれど、結局わたしはそのバイトをすぐにやめてしまった。

世界には嫌というほど金を持っている人たちがいて、その一部は金の使い道がわからずに途方に暮れている。そして彼らはなんとかして金を使おうとして、専属の運転手を雇い自前のヘリコプターで東京から鳥取のおいしいパン屋へ行って、出来立てのクロワッサンを2個買って帰ったり、隔週で広大な私有地を使用したわけのわからないパーティを開いたりする。そんな感じで、途方に暮れた金持ちたちの手によって、世界のどこかでよくわからない雇用が生まれ続けている。

その男は地主だった。地主とは世界でもっとも嘘の職業だ。ひとりの人間が紙切れひとつを根拠にその街を、その山を、その丘を所有していると言い張る。は?嘘すぎる。

わたしは海沿いのさびれた喫茶店でそのアルバイトと出会った。わたしは取るに足らない理由で海を訪れていた。海が一望できることが売りの喫茶店だったけれど、大雨の翌日の日本海はわたしの心に刻まれた理想の海、世界を上下に二分する聖なる水平線とはまったく別物の、黒くうごめく醜い怪物になっていた。存在する海より、存在しない海がいい。

わたしは現実の海に打ちのめされて喫茶店を訪れ、隅っこのテーブルでしょぼしょぼとチョコケーキを食べた。ケーキを食べ終わると、わたしはすぐに会計を済ませた。店を出ようとすると、わたしと同年代くらいの店員が、わたしをためらいがちに引き留めた。
「あの、オーナーがあなたに、よかったら話を聞いてくれないかって……」

「はじめまして。来てくれてありがとうございます。僕はA氏の代理人をしているEと申します」
喫茶店のバックヤードでは、ぱりぱりの背広を着た、肩までかかる長髪の男がわたしを待っていた。
「どうぞ座ってください。なにか軽食でも出しましょうか」
「いえ、さっきも食べたばかりなので」
「それもそうですね」
男は機嫌がよさそうに笑った。

Eと名乗った男はA氏について語った。A氏は札幌の中心部の土地を余るほど所有しており、土地運用の才もあって、不労所得による莫大な資産を得ています。それこそ僕のような代理人を雇ったり、道楽でこんな僻地に喫茶店を建てるくらいにはお金が余っているわけです。
あなたはいま、「それが自分に何の関係が?」と思っているかもしれませんね。話はここからです。A氏は札幌の若者を経済的に支援するために、実験的に新たな形の雇用を生み出すことにしました。資本主義社会において、労働者が生み出した剰余価値は資本家の手によってかすめ取られるものです。要は搾取ですね。A氏はこの現状にひどく心を痛めました。そしてひらめきます。労働者が労働によって価値を生み出すことこそが問題なのだと。労働者が労働によって無価値を生み出せば、剰余価値は生まれず、搾取は生じえません。なにせ奪いとれる価値がないのですから。どうですか?おもしろいでしょう?
それでですね、あなたには、この新しい試みのテスターになってほしいのです。僕があなたを雇用して賃金を払います。そこであなたは無価値を生み出してください。いいですか、無価値ですよ?価値を生み出してはだめなんです。金儲けをしてはいけません。ただ消費をするだけではいけませんよ。あくまで無価値を生み出さなくてはならないんです。どうですか?ねえ、やってみませんか?

男の話はそこで終わりらしかった。わたしはA氏も目の前の男もいけ好かないと思った。なんかひどい目に遭ってほしいと思った。無価値を生み出す?そんなものはただの言葉遊びでしかない。胡乱な金持ちの道楽に付き合うわけにはいかない。

とうとうわたしが男の申し出を請けたのは、当時のわたしがひどく金に困っていたからにほかならない。提示された金額はこれまでのアルバイトがばかばかしく思えるほどだった。シュークリーム、マドレーヌ、カヌレ、エクレア……ただ生きるだけでも、奇妙なことに金がかかる……。

「それでは、また一か月後に会いましょう。あなたの無価値を楽しみにしていますよ」
こうしてわたしは喫茶店を出た。バスに乗って家に帰り、その日は寝るまで無価値を生み出す、ということについて考えてみた。それはどう考えても、ただの言葉遊び以上のものではなかった。ああいう人たちは、自分が何を言っているのかさえわかっていない。割り切って考えれば、彼らが言っているのは「金は払うから、意味不明なことをして僕たちを喜ばせてください」ということだ。でも、それこそが搾取だ……彼らにはそれが分かっているのだろうか……。わたしはよく眠った。

次の週末、わたしはカメラを持って別の海岸を訪れた。砂浜には木やカラフルなプラスチック、ぼろぼろの網などがびっしりと打ち上げられている。地面をよく見ながら数分ほど歩くと、わたしはおおきな流木のふところに、ぬらりと光る、黒ずんだ球体があるのを見つけた。それは腐ったたまねぎで、まさにわたしが探していたものだった。この海岸にはどういうわけか、腐ったたまねぎが打ち上げられる。

わたしは屈みこんでたまねぎの写真を撮った。別の角度や距離からも何枚か撮った。そして立ち上がり、また別のたまねぎを探して歩きはじめた。たまねぎを見つけるたびに、わたしは入念に写真におさめた。それをわたしは3時間ほど続けた。

家に帰ると、わたしはカメラからデータをパソコンに取り込み、1200枚ほどの写真を40枚に選び抜いた。そしてそれらの写真に、Photoshopを使用して彩度は抑えめに、コントラストと明度を調整してたまねぎの光沢が目を惹くような加工を施した。そして、InDesignを使用して作成したデータを自宅のプリンターで上質紙に印刷し、ホチキスで留めて、腐ったたまねぎの写真をまとめたZINEを作り上げた。気がつくと近所のカラスが目覚め、朝が訪れはじめていた。わたしは、いい仕事ができたという満足感で深く眠った。

そして約束の日、わたしはあの喫茶店を訪れ、再びEと名乗る男と会った。わたしはEに腐ったたまねぎのZINEを渡した。
「わたしは浜辺に打ち上げられた腐ったたまねぎのZINEを作成することで、無価値を生み出しました」
男は興味深そうにZINEを手に取り、ページをめくっていった。男はあるページはさっと目を通すだけですぐに次のページへ移り、あるページでは顔を紙にぬっと近づけ、じっくりと腐ったたまねぎの写真を眺めた。わたしは向かいの席に座り、やけに不安な気持ちでそれを眺めていた。
「なるほど……」
男はZINEをテーブルにそっと置いた。
「あなたはなかなかおもしろいことをしましたね。でも、悪いがなにもわかっちゃいないみたいだ。これは価値です。あなたは価値を生み出してしまいました」
「この、腐ったたまねぎの写真集になんの価値があると?」
「価値がないわけがないでしょう。浜辺に打ち上げられた腐ったたまねぎの写真集ですよ?」
「はあ……」
「まあ、いいでしょう。もちろん約束通り給料も支払います。どうぞ」
わたしはなかなかの金が入った封筒を受け取った。どういうことなんだろう?
「来月こそは無価値を期待していますよ」
わたしは店をあとにした。

わたしは納得がいかなかった。納得がいかなくて、週末に再びあの海岸を訪れ、打ち上げられたたまねぎの写真を撮った。わたしはたぶんやけになっていて、海岸を端から端まで歩き、14000枚ほどたまねぎの写真を撮った。夜になり、朝になっていた。家に帰ると、そのまま写真を80枚選び抜き、同様にZINEを作成した。昼になっていた。

一か月が経ち、わたしは再び男のもとを訪れた。わたしはZINEを手渡した。男は再びじっくりとZINEを眺めはじめた。「ふむ」だとか「うーん」だとか呟きながらページをめくっていった。最後のページまで読み終えると、男はため息をついてZINEをテーブルにぱたりと置いた。
「前ほどではないですが、やはり価値です。あなたはなにもわかっていないようですね」
わたしは無性に神経が昂っていた。
「じゃあ辞めます。さようなら」
わたしはぶしつけに言って立ち上がった。
「残念ですね」
男はそうは言ったが、わたしを引き止める様子もなかった。わたしは家に帰り、引き出しからカメラを取り出すと、部屋の窓を開けて、カメラを思いきり外へ投げた。遠くでがしゃんと音がした。そしてベッドに倒れこみ、シーツが使い物にならなくなるほどひどく泣いた。泣き止んだあと、辞める前に給料を貰うべきだったと気がつき、再び泣いた。

当時のことを振り返る度に思うのは、当時のわたしが何を感じ、考えていたのかわからなすぎる、ということだ。おそらく、なにかがわたしをたまねぎの写真を撮ることに駆り立てたのだけれど、それがなんだったのかを思い出すことはもはやできない。どうしてわたしは泣いたのだろう。それももうわからない。ともかく、みっつめのバイトはこんな感じだった。

やがて、わたしは友人の紹介で現在のアルバイトをはじめた。なるべく早く辞められたらいいと思う。