左手薬指の指輪跡について

友人のPに久しぶりに会った。Pとわたしは一年ちょっと前に様々な偶然が重なって出会い、さらに様々な偶然が作用して仲良くなったのだけれど、これについてはまた別の文章が書けるほどなのでここで書くのはやめておく(それに、友人とは往々にしてそのようなものだから)。

わたしとPは「外暑すぎますね」とか「チカホにあるよくわかんない市場みたいなのって一生使わない気がする」とか話しながら大通周辺をうろつき、インターネットで話題の映画を観ようとして混み具合にげんなりしてやっぱりやめたりした。そのうち、わたしたちはふとたどり着いた狸小路のコメダ珈琲に入り、シロノワールを分けながらだらだらと雑談をはじめた。

お互いの近況報告なども終わると、PがバッグからA4のコピー用紙とボールペンを出してきて「絵しりとりしよ」と提案してきた。わたしは「なぜ……?」と言いながらボールペンを手に取り、コピー用紙にねこの絵を描いてPにボールペンを手渡した。

ねこ→コブラ(Pは時間をかけて写実的なコブラを描いた)→ラジオ→おにぎり→輪廻転生→馬→マスカット→鳥(いま考えるとトキのつもりだったかもしれない、でもこういう意図と解釈の食い違いこそが絵しりとりの楽しさではありますよね)→りんご

このように絵しりとりは続き、わたしがりんごを描き終えPにボールペンを渡そうとして顔を上げると、Pがいつからか、どこか気まずそうな表情をしていることに気がついた。
「気にしてたらごめんなんだけど、乾さん、私の知らない間に結婚して離婚した?」
「え、どっちもしてないよ」
「え、ほんと?じゃあその指輪跡ってなに?」
Pは、コピー用紙を押さえるわたしの左手薬指にうっすらと残る、青っぽい指輪跡のことが気になっていたようだった。よく気がつきますよね。Pがネイルをがらりと変えたときとかもわたしは二回に一回くらいしか気がつかない。

わたしは当初それとなく話題を変えようとしたけれど、Pはどうしても指輪跡のことが気になるという様子だった。観念したわたしはこの指輪跡についてPに話すことにしたが、その前に「ちょっと恥ずかしいからそんなに真面目に聴かないでね」と念を押した。Pはあえて無関心を装ってか、あの豆を食べながら「いいよ~」と答えた。

二年前、わたしはまだ留年も休学もしていない大学生だったのだけれど、言うまでもなく大学にひとりも友達がいなかった。でも、わたしはさしてそれを気にしているわけでもなかった。あほなので「わたしは孤高のミステリアスな美少女なのさ」とか考えていた。

あるとき、きっとなにかの授業中のこと、「わたしが既婚者だったら意外でみんなびっくりするかもしれない」と思った。それは何気ない思いつきだったのだけれど、この考えはすぐにわたしの頭の中を支配するようになった。左手薬指に指輪をはめて既婚者のふりをしよう。そのためにわたしは指輪を買わなくてはならない。わたしは今週末に指輪を買いに行かなくてはならない。

そのようにして、週末、わたしは札幌駅周辺に指輪を買いに出かけた。わたしは色々な店を歩き回って安くてシンプルだけどなおかつ個性的でかわいくてわたしの左手薬指に合うサイズの指輪を探した。結論、そのようなものは存在しなかった(最高安おしゃ指輪は白いカラスのようなものなので、存在しなかったという表現は不適切かもしれないですね)。

わたしは「トホホでおじゃるなあ……」と思い、今日はひとまず帰ろうと、とぼとぼ地下歩行空間を大通駅側に向かって歩いていった。わたしは歩きながらも指輪についての思索に耽っていたのだけれど、ふと、自分の足音がいやにうるさいことに気がつき、意識を外の世界へ戻した。いつからか、地下歩行空間にはわたしを残して誰ひとりいなくなっていた。

常ならないことが起きているとは感じつつもわたしは歩き続けた。わたしは誰もいないサブウェイ、誰もいないなんかアンケートに答えたらカップラーメンが貰えるやつ、誰もいない古本市、誰もいないフリースペース、誰もいない高校生とかの絵が展示しているやつを通り過ぎた。

地下歩行空間も終わりかけてモンベルの横を通り過ぎたとき、後ろから「止まりなさい」と低く鋭い声がした。わたしはめちゃくちゃびっくりして「ぎぇ」みたいな声を出しながら振り返ると、わたしのすぐ後ろにモンベルの緑のジャケットを着て、そのフードを目深にかぶったおばあさんが立っていた(これは後々わかるのだけれど、この話には3人のおばあさんが出てくるので、便宜的にこのおばあさんは今後おばあさんαと呼ぶことにします)。

わたしからはおばあさんαの顔の下半分しか見えなかったのだけれど、そこだけを見てもわかるほどにおばあさんαは美しかった。この、わたしが感じた美しいという感覚を伝えるのは難しいのだけれど、若く見えるとか、かわいいとかみたいなものでは決してなく、むしろ皺は深く刻まれ、そんじょそこらのおばあさん以上に老いていた。そして、それがかえって彼女の美しさを形作っていて、なんか、時間という名の彫刻家の手による最高傑作、という感じだった。

わたしがおばあさんαの美しさに見とれていると、彼女はゆっくりと口を開き、言葉のひとつひとつを時間をかけてはっきりと発音させて「お前は『指輪を探す者(リングシーカー)』だな?」と言った。リングシーカーという言葉はなんかかっこよすぎる感じがしたけれど、指輪を探している、ということについてはその通りだと思ったので、わたしは「たぶんそうです」と答えた。おばあさんαは「そうだろうさ」と呟きにやりと笑うと「いまからお前に授けるのはお前のための指輪だ」と右手の指をぱちんと鳴らした。直後、わたしの左手薬指のつけ根に鈍い痛みが走った。「ぎぇ」みたいな声を出しながら左手を顔の前に出すと、いつの間にかわたしの左手薬指に、丸い小さな青い宝石のついた、渋い銀色の指輪がはめられていた。サイズもぴったりだった。わたしは状況の奇妙さも忘れて指輪に見惚れ、左手をかざして指輪を色々な角度から眺めたり、右手で撫でてみたりした。

わたしは一度外して見てみようと指輪を右手で掴んだけれど、きつくはまっている感じはしないのに指輪はまったく抜ける様子がなかった。わたしの一連のあれこれをじっと眺めていたおばあさんαに対して「外せないんですけど」と不満げに言うと、彼女は不思議そうに「どうして外す必要がある」と答えた。たしかにその通りだと思ったので、わたしは「たしかにそうですね」と言った。

ふたりの間にやや長い沈黙があり、とうとうおばあさんαが「じゃあもうやることやったから帰りな」と言ったので、わたしは「わかりました」と言い、再び人のいない地下歩行空間を歩き、大通駅の改札を通り、地下鉄に乗って自宅の最寄りの駅で降りた。その日は家に帰るまで一切人と会わなかった。夕飯の際に家族に「その指輪どうしたの」と聞かれ、「おばあさんに貰った」と言うとちょっとウケていた。

それから、指輪が外せないのもあってわたしは左手薬指に指輪をはめて大学に通ったのだけれど、驚くほどなにもなかった。それもそうで、知らない人がちょっとアクセサリーを変えたくらいじゃ誰も気にしない。気がついたとしても話しかけるほどでもない。隣の席の知らない人が既婚者だったとして、なに?

当初の目的は失敗に終わったけれど、わたしはなんだかんだその指輪が気に入っていた。そして特に困ることもなく、わたしは指輪をつけたまま半年ほどを過ごした。おばあさんαのことや、指輪を手に入れた経緯もすっかり忘れていた。

その日はひどい雨が振っていて、わたしとQは傘を差していたのにも関わらずびしょびしょになっていた。Qはセットした髪がぐしゃぐしゃになったことに落ち込んでいて、雨宿りに入った喫茶店でもしなしなしていた。ふたりでだらだらと雑談をして、途中でQがトイレに行きわたしはひとりになった。

わたしはQを待ちながら注文した紅茶を待っていたのだけれど、いくら経ってもQも紅茶もやってこなかった。さらに待って、わたしは店内がやけに静かなことに気がついた。さっきまで流れていたジブリのジャズアレンジも止まっているし、人の話し声ひとつしない。立って周囲を見回すと、店の中には誰もいなくなっていた。

「まさか『指輪を持つ者(リングホルダー)』がここにいるとは」
後ろから耳をつんざくような高い声がした。振り返ると、Qが座っていたわたしの向かいの席にノースピークのライトグレーのジャケットを着たおばあさんが座っていた(このおばあさんは今後おばあさんβと呼びます)。おばあさんβの鼻は、童話に出てくる悪い魔女のように鋭利で歪曲していた。わたしはおばあさんαとの邂逅について思い出し、今回も似たようなものだろう、ということでわりかし落ち着いていた。

わたしはおばあさんβにわたしが落ち着き払っているところを見せようと、おばあさんβに左手の甲を向けて指輪を見せた(「わたしたち、結婚しました」のポーズ)。
「たぶん、わたしはそのリングホルダー?ってやつだと思います。ほら、この指輪です。それで、なにかありました?」
このわたしの発言がなんか面白かったようで、おばあさんβはややウケていた。
「肝が据わっているのか、それとも途方もない阿呆なのか……」
このおばあさんβの発言の感じで、この場合わたしは後者で、この状況はけっこう危ないやつなんじゃないか、と察しがついた。わたしがおずおずと「これって殺されたりするやつですか?」と聞くと、おばあさんβはそっけなく「うん、わし、全然殺すよ」と答えた。

やべ~~~~~~~~~~~~心臓バクバクバクバクバクバクこれマジで死ぬんですかやばやばやばやばなんとかなれなんとかなれなんとかなれなんとかなれ、いや、こういうのって物語とかならここで助けが来たりするけど人生って別に物語じゃないしこういう状況で死ぬ直前までどこからか助けが来ることを信じて結局死んだ人って全然いるんだろうな~いや他人事じゃないやべやべやべ~マジでいま死ぬのは未練あるあるあるあるというか未練とか関係なく死にたくなさすぎる~やばやばやばやばどうしよどうしよどうしよどうしよどうしよ~。

などと思っていると、喫茶店の入り口の扉についたベルがからりとなる音がした。
「餌に釣られてまんまと姿を現したようだな。会いたかったぞ、緋の魔女イザベラート。これまでの借りを返してもらうぞ……!」
それはモンベルの緑のジャケットを着た、あの美しきおばあさんαで、その右手には柄に金の装飾が施された、青く輝くナイフを握っていた。おばあさんαはナイフを突きつけながら、ゆっくりと、決断的におばあさんβのもとへ歩いていった。
「ナターシャ、まさか、貴様が生きているはずが……!」
おばあさんβはゆっくりと立ち上がり、その右手には赤く輝く手斧が握られていた。
「あれはやはりお前の差し金か。だが残念だったな。現に私はお前の目の前にいて、これからお前の命を奪うのだ」
「人間風情が、やってみろよ……!」

それからおばあさんαとβは店内をめちゃくちゃに荒らしながら激しい殺し合いを繰り広げた。わたしは戦いが始まるとすぐにテーブルの下に隠れてふたりの戦いを見守った。たぶんおばあさんαが善のおばあさんだから、おばあさんαを心の中で応援した。戦いの最中、なにかの機械が作動したのか店内のスピーカーから大音量で『いつも何度でも』のジャズロックアレンジが流れはじめ、それが金属同士がぶつかる音や木が砕け散る音、おばあさんたちのうめき声などと合わさってもうめちゃくちゃだった。

様子を見ている限り、おばあさんαが劣勢そうだった。おばあさんβは老いを感じさせない、圧倒的な身体能力で攻撃を続けるけれど、おばあさんαの身体能力は年相応とまではいかなくてもおばあさんβと比べるとどこか物足りなく、それを練達したナイフ捌きでなんとかしのいでいる、という感じだった。

おばあさんαが(わたしを守るためかはともかく)悪に属するおばあさんβと戦ってくれているのに、わたしにはできることがないのがもどかしかった。
「あるよ、あるある。できること、あるよ」
どこかから歌うような声が聞こえた。
「ここだよ~」
わたしの左手薬指の指輪がちかちかと光った。
「テーブルの下から出て、指輪を外してごらんよ」
その声はたしかに指輪から出ていた。わたしは疑いもせず、素直にテーブルからそっと這い出て、指輪をつまんだ。力を入れると、いままではなにをしても外せなかった指輪がすっと外れた。
「ありがとう、ありがとう」
指輪はわたしの手を離れてふわりと浮かび上がると、ふらふらとおばあさんたちのほうへと進んでいった。そのとき、おばあさんたちはナイフと手斧でつば競り合いをしていて、なんか言葉にならない声で叫び合っていた。そして指輪が交差するおばあさんたちの目線の真ん中にたどり着くと、指輪はぶくぶくと膨れ上がり、腕輪くらいのサイズになった。おばあさんたちが指輪に気がつき仲良く「まずい!」と叫んだ直後、指輪は目を開けていられないくらいに眩しく輝きなにも見えなくなり、数秒遅れて何百枚ものガラスがいっせいに割れるような轟音が鳴り響いた。

いままでのことが嘘みたいに静かになった。わたしがそっと目を開けると、おばあさんαとβは地面に倒れていて、ふたりの間には白いTシャツとジーンズを身に着けた背の高いおばあさん(これが最後のおばあさんγです)が立っていた。
「これが漁夫の利ってやつさね。協力ありがとう」
そう言い終えると、おばあさんγはニンテンドーダイレクトのあれみたいな感じでぱちんと指を鳴らした。

気がつくと、わたしはジブリジャズと静かな話し声で満ちたもとの喫茶店に戻っていた。わたしの左手薬指にはもう指輪はなかったけれど、青白い指輪跡がくっきりと残っていた。すぐに不機嫌そうなQが戻ってきて、わたしの頼んだ紅茶とQの頼んだコーヒーも届いた。コーヒーを飲んでQの元気も戻ってきたようだった。わたしはさっき体験したことを話したけれど、Qは「嘘つくなカス」と言っていた。わたしたちはまた雑談を再開し、雨が止むと店を出て、そのまま別れて帰った。

「それ以降、おばあさんたちには会っていないんだよね、っていう話」
とわたしは話を締めくくった。
「おばあさんのとこは全部嘘で、指輪をつけて大学に行ったけど誰にも反応してもらえなかったってところだけ本当でしょ?」
Pはきわめて常識的な人間だった。わたしが「どうしてわかったの?」とおどけると、Pは小さく笑い、また絵しりとりが再開された。