いるか日記

スマフォのメモ帳を眺めていたら二年前に書かれた『短歌』というタイトルのページがあり、中には「水があまくてこわい 水があまくてこわい 水があまくてこわい」とだけ書かれていた。短歌か?

友人のQから「いまだけ、豊平川にいるかがいる」というLINEが送られてくる。インターネットにもそんな情報はなかったし、そもそもQは東京にいる。

畢竟大嘘なのだけれど、時間だけはあるわたしにとって、いるかがいなくても失うものはなにもないし、やはりいるかがいたとしたら嬉しすぎるな、と思い(これは『パスカルのいるか賭け』と呼ばれる考え方です)、買ったばかりの無印のスリッポンブーツみたいなやつを履いて外へ出た。←わたしがいままで屋内にいたことがここで判明します。叙述トリックですね。

わたしは郊外のあの感じが苦手で、外を歩くときまって憂鬱な気分になり、今日もそのようになっていた。「いるかがいたとして、なに?」と思いはじめていたが、その足が止まることはなく、とうとうわたしは豊平川までたどり着いていた。

いるかがいた。わたしはてっきり多摩川にアザラシが迷い込んだあれのいるかバージョンを想像していたのだけれど、なんかそうではなかったようで、いるかたちは川原にいて、尾びれを器用に使って立っていた。川原には集まってバーベキューをしているいるかや、石を川に投げて水切り遊びをするいるか、釣竿を片手にぼんやりと水面を眺めるいるかなどがいた。

わたしはバーベキューをするいるかたちに近寄り、勇気を出して「キュイキュイ(いるか語で『あ、すみません、ちょっといいですか?』の意)」と話しかけた。いるかたちはわたしが近寄ってきた地点でわたしの気配は感じていたはず(びっくりさせないようにわざと足音も立てていた)なのだけれど、話しかけられて初めて気が付いた、というふうに一斉にパッとこちらを振り向いた。このとき、わたしは初めているかの瞳をまじまじと眺めたのだけれど、あれほど不気味なものはこの世界を探してもそう多くは見つからないと思う。回転ずしのトリトンの湯呑みに描いてあるいるかとかを想像している人はけっこうショックだと思う。わたしもそうだったし。

川のせせらぎがうるさいくらいの沈黙が続き、とうとういるかたちのひとりが口を開いた。
「なんでしょうか?」
いるかとは思えない整った日本語だった。
「いえ、あの、今日だけ豊平川にいるかがいると聞いて来たんです……」
「そうですか。それで、あなたはいるかに会って何をするつもりだったんですか?」
「ええと……いや、考えてなくて……すみません……」
「なにも考えずに来たんですか?私たちが楽しくバーベキューをしているところに水を差すだけの無神経さはあるのに、いっちょまえに謝罪だけはするんですね?」
「あはは、すみません……」
わたしは自分の顔が熱を帯びていることに気が付いた。きっと紅くなっているのだろう。わたしははやくこの場からいなくなりたいという気持ちでいっぱいになった。そして聞こえないくらいの声で「すみませんでした……」と言って、しなしなといるかたちのもとを去っていった。

いるかがいわしくらいに見える距離まで離れたころにはわたしも冷静さを取り戻してきていて、「あのいるかたち、豊平川は火気厳禁なのに堂々とバーベキューしてたな……」と思えてきた。そうすると胸のあたりから無性に怒りがこみあげてきて、あのいるかたちに正義の鉄槌を下さなくてはならない、という気持ちになってきた。そこでわたしは手ごろな石を拾い、何気ない素振りでいるかたちのもとに戻り、バーベキューをするいるかたちめがけて思いっきり石を投げた。わたしは「ここは火気厳禁なんだよ、バーカ!」と叫ぶと、石が当たったかを確認する暇もなく、一目散に走って逃げた。すぐに後ろから「どうする、殺す?」「殺したほうがいいね」「あれはキュイキュイだな」という声が聞こえたので、わたしは身体の悲鳴も無視して、がむしゃらにスピードをあげて逃げた。

川から離れ、近くのローソンに逃げ込むと、息も絶え絶えのわたしを見た周囲の人々に緊張が走ったのがわかった。わたしは無害な人間であることを主張しようと、息を整えながら500mlのポカリを購入した(これでランニング終わりの人だと思ってくれるだろうという考えです)。店を出てポカリを飲んでいると、いるかたちのことが嘘のように思えてきた。試しに、しばらく待ってからそっと川辺の様子を見てみたのだけれど、いるかたちも、いるかたちが使っていたバーベキュー器具もどこにもなかった。

わたしは歩いて家に帰り、相対性理論の『地獄先生』を歌いながらシャワーを浴び、身体を拭いて髪を乾かし、清潔なパジャマに着替えた。時計を見るとまだ午後二時だった。既に太ももと脇の下のあたりが筋肉痛になってきていた。わたしはベッドに腰掛け、LINEでQに「いるかいた」と返信した。

それから、六時ごろまでだらだらとゲーム制作の作業に取り組み、夕飯を食べて、歯磨きを終えたころQから返信が来ていた。「嘘つくなカス」とのことだった。それに対し、わたしはVTuberの周央サンゴさんが「ンゴねぇ……」と言っているスタンプを送った。これにはまだ既読がついていない。